東京高等裁判所 平成6年(ネ)1580号 判決 1997年9月16日
控訴人
東京都
右代表者知事
青島幸男
右訴訟代理人弁護士
伊東健次
右指定代理人
松下博之
外一名
被控訴人
動くゲイとレズビアンの会(旧名称アカー)
右代表者
関谷真美子
同
永田雅司
同
風間孝
同
稲場雅紀
同
柳橋晃俊
右訴訟代理人弁護士
中川重徳
同
森野嘉郎
同
伊東大祐
主文
原判決中、被控訴人に関する部分を次のとおり変更する。
控訴人は、被控訴人に対し、一六万七二〇〇円及びこれに対する平成三年三月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
被控訴人のその余の請求を棄却する。
訴訟費用は、第一、二審を通じてこれを二〇分し、その一を控訴人の負担とし、その余を被控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一 当事者の求めた裁判
一 控訴人
1 原判決中、控訴人敗訴部分を取り消す。
2 被控訴人の請求を棄却する。
3 訴訟費用は、第一、二審とも、被控訴人の負担とする。
二 被控訴人
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は、控訴人の負担とする。
第二 本件事案の概要は、次のとおり付加するほかは、原判決の「事実及び理由」欄の「第二 事案の概要」に記載のとおり(但し、控訴人と被控訴人に関する部分に限るものとし、原判決一〇頁一一行目の「いろいろあったていう」を「いろいろあったっていう」と改める。)であるから、これを引用する。
一 控訴人の当審における補充主張
1 本件使用申込書を受理しなかったことについて
(一) 講学上の受理とは、他人の行為を有効な行為として受領する行為と定義されている。これを、東京都青年の家の使用関係について見ると、青年の家を使用しようとする者の使用申請行為を有効な行為として都教育委員会が受領する行為が受理であるということができる。
そして、本件においては、被控訴人から電話による府中青年の家の利用の予約があったときから、瀬川所長は申込書を受理した場合と同様に、その後の事務処理を行っており、その後に本件使用申込に対して、都教育委員会が本件の使用承認はできない旨の回答をしているのである。そうすると、被控訴人から本件使用申込書が提出された平成二年四月一一日は、瀬川所長としては、都教育委員会の使用承認の結論を待っていた段階であり、提出された本件使用申込書を返戻したとしても、被控訴人の申込に対する使用承認可否の手続は進行しており、本件では受理はあったというべきである。なお、申込内容である施設は利用可能なように確保されていた。
(二) 仮に、本件使用申込書を被控訴人に返戻した行為が不受理行為と解されたとしても、右不受理行為をもって、国家賠償法一条にいうところの違法な行為とはいえない。すなわち、同条にいう「違法」とは、諸般の事情から、国又は公共団体に損害賠償義務を負担させるだけの実質的な損害のある場合でなければならないと解するのが相当であるところ、本件においては、未だ実質的な損害のある場合とはいえないから、同条にいう違法な行為とはいえない。
2 本件不承認処分の適法性について
(一) 地方自治法二四四条二項によれば、公の施設の利用者に対して「正当な理由」がある場合には、その利用を拒むことができると規定している。そして、ここでいう「正当な理由」は当該施設の設置目的、一般公共の使用関係、利用団体の規模、利用形態等の関連から、その施設の管理主体が設定する利用条件に従って決定されるものである。
本件府中青年の家の利用にあたっては、都青年の家条例八条各号に該当すると都教育委員会が判断した場合、当該使用申込者は施設の利用ができないのであるが、同条に該当する事情があるかどうかは、それが諸般の事情を具体的に検討、考慮して判断すべき性質の事項であることからみて、決定権者である都教育委員会の裁量に属することは当然である。
(二) 特に、青年の家は、「団体生活を通じて都内の青少年の健全な育成を図る」ことを目的として設置されている教育施設であり、青少年が、団体生活を通じて社会生活の基本的なルール等を学びながら、自律性・主体性を培い、社会の一員として心身ともに健全に成長し、人格の完成を目指すことができるように、その発達段階に応じた教育的な配慮をすることが必要である。このような青少年の健全な育成を図るために設置された青年の家において、男女を同室に宿泊させることは到底保護者や国民一般の同意が得られないことはもちろん、青少年自身の健全な育成に障害を生ずることは明らかである。この「男女別室宿泊の原則」は、青年の家が宿泊を伴う公の施設であるという特性から、宿泊を伴わない公の施設にはない制限を付加するものである。そして、何が青少年の健全な育成に当たるかは、教育的配慮に基づく高度の専門的・技術的判断に服するのであるから、かような場合には決定権者の広範な裁量が認められ、都教育委員会の裁量権の限界を超え、その裁量行為に逸脱ないし濫用がない限り、違法とはいえないというべきである。
(三) 男女を同室に宿泊させることができないことは、青年の家の沿革からみても是認できる。また、青年の家がその利用対象ととらえている青少年は、小学生から概ね二五歳までであるが、このうち、高校生くらいまでの青少年は、人格形成の途上にあり、性的にも未熟で、成人に比して性的羞恥心が強く、判断力も未だ十全とはいえない。そして、青年の家で、同室に宿泊する男女が性行為を行い、他方、同室又は他室の青少年がその行為を直接目撃したり、又はその行為を行っていると窺わせるような状況を感得することになれば、青年の家を利用する青少年に対して重大な混乱や摩擦を招き、青少年自身の性意識に多大の悪影響を及ぼす。また、行政が、性的行為が行われる可能性がある場を提供することは許されないというべきである。したがって、男女を同室に宿泊させることは、青年の家の設置目的に著しく反するというべきである。
(四) そして、複数の同性愛者を同室で宿泊させた場合にも、右で述べた男女の場合と同様に、青年の家を利用する青少年に対して重大な混乱や摩擦を招き、青少年自身の性意識に多大の悪影響を及ぼすばかりか、青年の家の設置目的に著しく反するというべきである。したがって、このような場合に、青年の家の利用秩序の維持の見地から利用を拒否することは是認されるべきである。
3(一) 男女をその構成員とする団体であっても、当該青年の家の部屋数や当日の他団体の利用状況によっては、宿泊利用が不可能となる場合が現実に生じ得るのであるから、男女別室宿泊の原則を同性愛者の団体に適用した結果、相当数の個室でもない限り青年の家での宿泊が不可能となったとしても、それは、同性愛者の団体に対して特に不利益な取扱いをしたものではなく、それは男女を構成員とする団体の場合に比して程度の差に過ぎない。
(二) また、宿泊すること自体は青年の家における団体としての本来の活動に必須のものでないことは明らかであり、団体としての活動は就寝時間中は行われないのであるから、日帰り利用の団体と比較して、宿泊が認められなかったとしても、そのことが団体の活動に与える影響は、せいぜい就寝時間前後の短時間に関するものに過ぎない。しかも、被控訴人の当日の利用者の大半は既に学生ではない有職青年であると考えられ、これらの者に関しては、団体生活のルールを学ばせ自立の力を養うという青年の家における宿泊の意義は、相当に低くなっているものといわざるを得ない。
以上により、同性愛者が青年の家に宿泊することができなくなることをもって、同性愛者が青年の家の利用権を奪われるに等しいものであると評価することはできない。
(三) 男女別室宿泊の原則について考える場合、原判決のように、そこに性的行為に出る具体的可能性の観念を持ち込むこと自体が誤っている。同原則は、男女を同室に宿泊させた場合、一般的に性的行為に出る可能性があることに鑑み、社会の性に対する意識や規範、人間の性的羞恥心等に照らして認められたものである。したがって、性的行為の具体的可能性の程度如何によって適用の有無を異にするものではない。
また、この原則の適用は「男女の同室宿泊」という一義的かつ明確な基準の下にされるからこそ普遍性を有し、個々の適用の場面において恣意を排し、客観性、公平性を担保し得るものであるが、仮にこの原則の適用にあたって「性的行為に出る具体的可能性」というような不明確な観念を持ち込み、それを判断の基礎に置くならば、そこから導き出される結論は、極めて恣意的かつ主観的なものにならざるを得ないというべきである。
仮に、原判決がいうように男女別室宿泊の原則を貫くと宿泊利用が困難となる場合には、「性的行為に出る具体的可能性」の検討を行い、その可能性がある場合に限って宿泊を認めないことが妥当であるとした場合であっても、現実にその判断を行うことは極めて困難なものとならざるを得ない。これは判断者に不可能を強いるものである。
4 同性愛に関し青少年に知らせることによる混乱について
(一) 男女両性の間に係る問題についても、幼児・児童・生徒の発達段階の特徴と発達課題を精選して性教育の指導内容として計画することが重要であり、児童・生徒の学習に対するレディネス(準備能力)―一般に学習に必要な身体的・精神的諸機能や諸能力、学習を進める上での基礎的な知識や技能の保持、学習態度の確立など―に十分な配慮を払わないと、幼児・児童・生徒に強い精神的な衝撃を与える結果となる。そして、青年の家の利用者は、原則として、男女の間の性の問題としての性教育をそれぞれの発達段階に応じて受けている、成熟過程にある人々である。
(二) これに対し、同性愛は、性の問題を男女両性の間のものとする原則的な立場からはその理解に困難を伴う事象であり、また、同性愛に対する社会的認知が行われ始めたのは、全世界的にみても、最近のことであり、この一事をもってしても、成熟した人間にとっても同性愛の問題は簡単に理解できることではないことが明らかである。
(三) したがって、平成二年当時の青年の家の利用者のうち、最も性的成熟が未発達で、学習に対するレディネスが備わっていない小学生たちが同性愛者の同室宿泊を知れば、男女の同室宿泊以上に強い衝撃を受け、誤解あるいは理解不能な対象に対する過剰反応を起こす可能性を否定できないのである。
まさに、平成二年二月一一日から一二日にかけて、被控訴人が府中青年の家を利用した際に、小学生がとった言動は、この意味に理解されるべきである。
(四) もっともこれに対し、被控訴人は、十分な性的自己決定能力を育てるためには多様な性のあり方を率直に知らせ教育していくことが重要だと主張するかもしれない。しかし、性の自由化に伴う現代の人々の「多様な性のあり方」のすべてを、未だ性的な自立性が十分備わっていない青少年、とりわけ小学生に知らせ教えることは、その性的自己決定能力を育てる上で混乱を生ずるばかりか有害でさえもある。
(五) そうだとすると、右のような結果は、「同泊のグループと積極的に交流し、協力しあう」ことによって青少年の自主性や社会性を養わせようという青年の家設立の趣旨に反し、ひいては青年の家の秩序を乱すおそれがあり、管理上も支障があるということができるので、本件不承認処分は適法である。
5 平成二年当時の判断資料について
(一) 仮に、同性愛者の団体が青年の家を利用したとしても、小学生をはじめとする青年の家の利用者に対し青年の家の職員が適切な指導をすれば、同性愛者の利用者とその他の利用者との間で紛争が生じることはなく、また、同性愛者の同室宿泊が青少年の健全育成に何らの悪影響も及ぼさないとしても、平成二年当時の我が国における同性愛者に関する知識を基準とすると、都教育委員会が右に仮定した事実を知ることは著しく困難であった。
(二) 瀬川所長が調べた時点での辞書類での説明もまちまちであって、同性愛を肯定的にとらえるものから否定的にとらえるものまであり、むしろこれを否定的にとらえるものが多かった状況である。
(三) そして、瀬川所長から協議を受けた都教育委員会においても、本件不承認処分をするまでの間は、約二か月足らずであり、海外の文献、大学、研究機関の所持する文献、専門家からの意見の聴取などに基づく検討を行う時間的猶予は全くなかった。
(四) このような状況で、同性愛者が青年の家を宿泊利用することが、小学生をはじめとする青年の家の他の利用者の健全育成に悪影響を及ぼすと判断したことはやむを得ないものであった。
二 控訴人の主張に対する被控訴人の反論
1 控訴人の主張1について
(一) 都青年の家条例施行規則では、青年の家の利用申込は、使用申込書を提出して行う要式行為であることが明確に規定されている。したがって、これに対応した申込の受理も、右使用申込書を受領することによって初めて成立する要式行為である。本件では、被控訴人が使用申込書を提出しようとしたのに、府中青年の家側がこれを拒んだのであるから、いくら内部的に手続を進めていたとしても、受理行為は存在しない。
(二) 仮に、本件で本来の受理があった場合と同様の手続がされていたとしても、申込をした利用者の側からすれば、要式行為として申込ないし受理が完了していない以上、申込に対する審理・決定が正常にされるという保障はなく、申込者の立場は著しく不安定となるから、受理があったと同視することも相当でない。
(三) 被控訴人としては、瀬川所長が本件使用申込書の受領を拒否したため、被控訴人の利用申込について正式に審議・検討してもらえるか非常に不安であった。そのため、被控訴人としては、利用の可否を正式に審理・検討させるため、弁護士に相談・依頼の上、平成二年四月一三日には請願の形式を用いて再度利用の申請を行うとともに本来の使用申込書の受領を要求し、同月二三日に都教育庁を訪れた際にも重ねて申込をしてその受領を求めることとなった。これらは、同月一一日に、使用申込書が受領されていれば必要なかった余分な労力である。この点で控訴人は、損害賠償義務を免れない。
(四) 仮に、本件において、受理があったと評価し得るとしても、使用申込書の受領が拒絶されたため、(二)のように被控訴人は極めて不安定な立場に置かれ、重大な不利益を受けたから、これを受領させるために被控訴人が支出を余儀なくされた無形の労力について、控訴人は、国家賠償法一条による損害賠償義務を負う。
2(一) 同2(一)(二)の主張について
青年の家を利用する行為は、集会の自由や学習権といった憲法上の権利を行使する行為にほかならない。そして、都教育委員会が青年の家の利用を拒絶することができる場合について定めた都青年の家条例八条各号の規定がいずれもそれ自体としては抽象的な表現となっている以上、どのような場合に右各号の要件が満たされるかという点については、このような施設利用権の重大性に照らして限定的に解釈されなければならない。
このような観点からすると、右条例八条一号は「秩序を乱すおそれがあるとき」を、同条二号は「管理上支障があるとき」を使用不許可の事由として規定しているが、この規定は、これらの事態が許可権者である都教育委員会の主観により予測されるだけでなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかにされて初めて、使用を不許可とすることができることを定めたものと解すべきである。このような意味で、施設の管理者に施設の利用について広範な裁量権を認める控訴人の主張は失当である。
(二) 同2(三)(四)の主張について
控訴人は、青少年が青年の家において性行為を目撃したり、性行為が行われていると窺わせるような状況を感得した場合の悪影響を問題とするが、そもそも青年の家で現実に性行為が行われることなどあり得ないという被控訴人の主張に対する具体的な反論や立証は全くされていない。また、仮に、性行為を目撃する等の事態があった場合に青少年が受ける「悪影響」についても何ら具体的な主張や立証がされていない。
そして、控訴人の主張の根底にあるものは、「同性愛者は他の青少年、特に年少の青少年に悪影響を与える」という偏見に他ならない。しかし、各種の実証的な研究や実践によると、同性愛者の存在は、異性愛者の青少年に対し、何らの悪影響を与えるものではないことが明らかである。
控訴人は、「男女別室宿泊の原則」が「性的意識の向き合うもの同士を同室に宿泊させない」ことにより「性的行為」を防止するために設けられたものであると主張するが、右主張はにわかに信じがたいものである。なぜならば、そもそも男女別の部屋割りは、むしろ社会のいろいろな場面において行われている多様な背景を有する社会習慣とでもいうべき男女の区別に由来するものであるに過ぎないからである。青年の家での宿泊に限らず、例えば、着替え、入浴、トイレの使用に見られるように、男女を分けることは社会的に多々見られる現象であるが、こういった男女を区別するやり方は古くから社会的に広く行われている一種の社会習慣なのであって、「性的行為の防止」という単一の根拠のみからはこの区分の役割を説明することはできない。「男女を分ける」という多様な背景を持つ一種の社会慣習を、「性意識が向き合うものを分ける」という単一的な原理をもって説明し、同性愛者にも機械的に類推適用したところに都教育委員会の誤りがある。
3(一) 同3(一)の主張について
同性愛者の団体は、部屋数や当日の団体の利用状況にかかわらず、常に宿泊利用を拒否されるのであるから、その不利益は程度問題ではない。
(二) 同3(二)の主張について
青年の家の利用にとって、宿泊は本質的機能であり、宿泊活動が、青少年の社会教育施設・活動において重要な意義を有し、青年の家固有の本質的機能であることは、控訴人自身が一貫して強調してきたことがらである。そして、宿泊の意義は、年齢の高い青少年にとっても大きなものがある。
(三) 同3(三)の主張について
青年の家側としては、明らかに性的行為が行われると認められる具体的根拠がある場合のみをチェックすれば十分であり、それで不都合はないのである。
4 同4の主張について
控訴人は、同性愛者を知ることによって青少年に混乱が生じると主張するが、どのような混乱が引き起こされるのか具体的な意味・内容を全く述べないし、根拠となるデータ・研究も示されていない。むしろ、同性愛についての情報は、小学生に対しても様々な形で連日流されている。しかし、その情報のほとんどが同性愛者に対する無知や偏見に基づくものである。問題は、同性愛について知らせることの弊害ではなく、既に知らされた「同性愛」の中身である。同性愛者の青少年が孤立と情報不足、その結果としての自己否定から抜け出す手助けをし、異性愛者の青少年の誤った固定観念や差別感情を払拭することこそが、社会に課せられた同性愛に関する緊急の課題なのである。このような中で、青年の家において、同性愛者のグループが差別や嫌がらせを受けずに学習やレクリエーションを行い、職員もそれを当然のこととして同性愛者に接するならば、並行して利用する周囲の青少年にとって、百万言にも代えがたい無言の教育的効果を及ぼすことは疑いない。
5 同5の主張について
地方自治法二四四条二項が、「正当な理由なくして利用を拒絶できない」と規定する以上、都教育委員会は、「正当な理由」がある場合に限って利用を拒絶することが許されるのであり、「正当な理由」があるか否か不明な場合には、利用を拒絶することは許されず、要件がないのに不承認処分をした以上、当然過失がある。また、平成二年当時は、同性愛を人間の正常な発達の一形態とする評価は世界的に確立されて久しい時期であり、日本の専門家においてもこの点は共通認識になっていた。これらに関する資料を入手することも都教育委員会ほどの人的・物的条件を有する組織であれば可能であったはずである。そして、検討する時間も十分あった。
第三 当裁判所の判断
一 当裁判所は、被控訴人の本訴請求は、本件損害賠償金一六万七二〇〇円及びこれに対する不法行為の後である平成三年三月一九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容すべきであるが、その余は理由がないからこれを棄却すべきものと判断する。その理由は、次のとおり付加訂正するほかは、原判決の「事実及び理由」欄の「第三当裁判所の判断」に記載のとおり(但し、控訴人と被控訴人に関する部分に限る。)であるから、これを引用する。
1 原判決四九頁四行目の「青年の家」から同六行目末尾までを、「青年の家が設立された頃は、東京都以外の道府県の中学校を卒業して東京に就業する青少年が非常に多くて、そのような青少年の余暇の利用に関する問題について、教育委員会として検討した結果、団体生活(宿泊生活)を通じて、右のような青少年の学習意欲を満たし、その健全育成を図るという趣旨で青年の家が設置されたものである。青年の家は、宿泊機能と活動機能が一体となった施設であり、青年たちが共同宿泊活動を通して成長する場として設置されたものである。その後、右のような就業者は減少し、大学生、中高生、小学生などの利用層が拡大していった。また、青年の家の設置当初は、宿泊を伴う利用が主体であったが、その後の社会の変化、余暇時間の増加等によって、宿泊を伴わない利用も増え、そういった利用者の需要に応えるため、日帰りの利用も認めてきている。しかし、それを宿泊に伴う利用と同列に扱っているわけではなく、あくまでも宿泊に伴う利用を優先していることに変わりはない。また、その使用料金は、「青少年の健全育成」という政策等から、極めて廉価に設定されている。したがって、青年の家においては、日帰りの利用もできるが、その施設の主要かつ特徴的な利用は、宿泊を伴う利用といえる。また、青年の家における生活の時程は、青年の家が予め決めている標準生活時程に合わせて利用者が自主的に決めることになっており、その生活も各グループの自主的な運営に任され、青年の家職員の指導・助言も団体の主体性に任せた上での指導・助言となっている。青年の家では、グループ内交流とともに、グループ間交流を図ることにも意義を認めているが、グループ間交流は実際にはなかなか思い通りには実施できず、現在は各グループの自主的な判断に委ねている現状である。(甲九、七七、一二九、当審証人高村延雄)」と改める。
2 同五三頁一行目から同二行目までを「東京都青年の家においては、昭和五二年四月以降宿直制度は廃止され、午後九時ないし九時三〇分以降は、警備員のみが管理することになっているが、同人らの業務は、所内外の見回りによる警備が中心であって、利用者に対する教育的見地からの指導は含まれていない。府中青年の家においては、職員の勤務時間は午後九時一五分までである。(甲九、一三、七七、一二九、乙二八、三〇、当審証人高村延雄)」と改める。
3 同六八頁八行目及び同八一頁六行目の「あったていうけど」をいずれも「あったっていうけど」と改める。
4 同八四頁六行目の末尾に「控訴人は、本件使用申込については、都教育委員会において、申込書を受理した場合と同様の事務処理をしていたから、実質的には受理行為はあったと主張するが、都青年の家条例施行規則によれば、青年の家を利用しようとする者は、都教育委員会に対し、使用申込書を提出して、その承認を得なければならないとされており(甲七)、右申込においては、使用申込書を提出する必要があり、それを提出するまでは、法的に申込があったとはいえないと解される。また、都教育委員会において、実質上、申込書の提出があった場合と同様の手続が進められていたとしても、それは、法律上は、事実上の内部的検討に過ぎないというべきものであり、使用を承認する場合には改めて使用申込書を提出する必要があると考えられるから、右瀬川所長の行為は申込書の不受理行為というべきものであって、本件において、申込書の受理行為があった場合と同様に手続が進められていたとしても、それによって、受理行為があった場合と同視することはできない。また、これによって、被控訴人は、不安定な地位におかれ、再び使用申込書を提出せざるを得なかったのであるから、右不受理行為に違法性がないともいえない。」を加える。
5 同八七頁二行目、同八九頁二行目及び同九〇頁一〇行目の各末尾にそれぞれ「⑤行政が性的行為が行われる可能性がある場を提供することは許されない。」を加える。
6 同九一頁四行目から同九三頁一一行目までを、次のとおり改める。
「Ⅰ まず、異性愛者である男女が同室に宿泊する場合について検討するに、男女が同室に宿泊することは、一般的には男女間で性的行為が行われる可能性があると共に、社会一般の道徳観念や慣習からしても好ましいことではなく、単に対価を得て宿泊場所を提供するに過ぎないホテルや旅館と異なり、青少年の健全な育成を図ることを目的として設立した教育施設である青年の家において、このような事態を避けるために、男女別室宿泊の原則を掲げ、この点を施設利用の承認不承認にあたって考慮すべき事項とすることは相当であり、国民もこれを一般的に承認していると考えられる。
そして、この原則を、性的行為が行われる可能性について着目して、同性愛者の同室宿泊について考えるならば、複数の同性愛者が同室に宿泊することは右原則に実質的に抵触することになる。すなわち、同性愛者は、その性的指向が同性に向かうものであり、異性愛者が異性に対して抱くのと同じ性的感情を同性に対し抱き、高ずれば同性との間で性的行為をもつものであるから、同性愛者を同室に宿泊させた場合、異性愛者である男女を同室に宿泊させた場合と同様に、一般的には性的行為が行われる可能性があるといわざるを得ないからである。そして、教育施設としての青年の家において、制度上一般的に性的行為が行われる可能性があることは、相当とはいえないから、同性愛者の宿泊利用の申込に対して、この点を施設利用の承認不承認にあたって考慮することは相当である。但し、その可能性については、異性愛者である男女の同室宿泊の場合と同程度と認めるべきであり、それ以上でもなければそれ以下でもないというべきである(なお、平成二年版「イミダス」には、「男性ホモの場合は強迫的で反復性のある肉体関係がつきまとい、対象を変えることが多い。」との記述部分があることは前記認定のとおりであるが、これによって、同性愛者の場合、異性愛者に比べ、性的行為の可能性が有意に高くなるとは直ちにいえないし、控訴人において、その点を問題にしているとも認められない。)。
ところで、青年の家における宿泊は、おおむね六名以上で構成されている団体がするものであることは前記認定のとおりであるから、その宿泊は、通常、特定の二人の利用者の宿泊ではなく、原則として数名の宿泊者の相部屋であると考えられる。そうすると、特定の二人による宿泊に比べ、性的行為が行われる可能性は、同性愛者においても、異性愛者同様に、それほど高いものとは認めがたい。また、夜間における管理は、前記認定のとおり、警備員が見回る程度であるから、性的行為が行われないかどうかは、最終的には、利用者の自覚に委ねられている面が大きいというべきである。
更に、介助を要する身体障害者について、異性の介助者しかいない場合には、利用者の便宜を優先して、青年の家の男女同室の利用を認めているのであり(当審証人高村延雄)、男女別室宿泊の原則も絶対の原則とはいえず、やむを得ない事由がある場合には例外を認めていることが認められる。
このように、青年の家において性的行為が行われる可能性はそれほど高いものとはいえず、また、それも利用者の自覚に委ねられているというべきものであって、これを絶対的に禁止することはそもそも不可能な事柄であり、しかも、やむを得ない場合には例外を認めるものであるから、男女別室宿泊の原則を施設利用の承認不承認にあたって考慮することは相当であるとしても、この適用においては、利用者の利用権を不当に侵害しないように十分に配慮する必要があるというべきである。」
7 同九六頁七行目の「蔑視」を「好奇心、蔑視」と改める。
8 同九七頁九行目の次に行を改めて、次のとおり加える。
「Ⅴ 更に、都教育委員会は、「行政が性的行為が行われる可能性がある場を提供することは許されない」と主張するが、これは、実質的には、都教育委員会の前記(二)(4)Ⅱ①の理由と同一に帰するというべきものであり、性的行為が行われる可能性がある場合でも、利用者の利用権を不当に侵害しないために、その利用を許す場合には、行政がそのような可能性がある利用に公的施設を提供することはやむを得ないことであるから、右①の理由と切り離してこれを独立の理由とする必要はないというべきである。したがって、都教育委員会の前記(二)(4)Ⅱ⑤の理由は採用できない。」
9 同九八頁九行目から同一〇四頁四行目までを次のとおり改める。
「Ⅱ ところで、控訴人は、男女別室宿泊の原則は青年の家において遵守すべきものであり、この原則を、同性愛者にも、性的行為が行われる可能性という観点から実質的に適用すると、同性愛者の宿泊利用は認められないと主張する。しかしながら、もともと男女別室宿泊の原則は、異性愛者である通常の利用者を念頭に、一般に承認されている男女別室の原則を青年の家においても当然に遵守させるべきであるとの考えから、その利用を承認するかどうかを決定するに際して考慮しているものと考えられるところ、右原則は、前記説示のとおり、性的行為に及ぶ可能性を含む種々の理由から異性愛者に関する社会的な慣習として長年遵守されてきたものであり、同性愛者はもともと念頭に置かれていなかったものである。そして、同性愛者について、この原則を適用するに際して、生物学的な男女にのみ着目するならば、同性愛者においても、これを遵守することは異性愛者と同様にそれほどの困難を伴わずに従うことができるのに、そうではなくて、性的行為が行われる可能性のみに着眼して、実質的にこれを判断しようとすると、青年の家が予定している宿泊形態(数名の者が同一の部屋に宿泊するものであって、一人ずつ個室に分かれて宿泊できるような相当数の個室はない。)では、同性愛者は、青年の家の宿泊利用は全くできなくなってしまうものであり、これは異性愛者に比べて著しく不利益であり、同性愛者である限り、青年の家の宿泊を伴う利用権は全く奪われるに等しいものである。
控訴人は、この点について、同性愛者も日帰り利用ができるから、それほど重大な不利益ではないと主張するが、青年の家は、宿泊機能と活動機能が一体となった施設であり、青少年が共同宿泊活動を通して成長する場として設置されたものであって、そこには、青少年の健全な育成という観点からは、共同宿泊活動が重要であるとの認識があること、したがって、その施設の主要かつ特徴的な利用は、宿泊を伴う利用であることは前記認定のとおりである。そして、同性愛者も、当然に青年の家を右のような共同宿泊活動の場として利用し、その利益を享受する権利を有するというべきであるから、控訴人の右主張は採用できない。
Ⅲ そこで、男女別室宿泊の原則は、同性愛者について青年の家の宿泊利用権を全く奪ってまでも、なお貫徹されなければならないものであるのか、検討する必要がある。
男女別室宿泊の原則は、青年の家において、性的行為に学ぶ可能性を少なくする男女別室という宿泊形態をとり、利用者にこれを遵守させることによって、性的行為が行われる可能性を一般的には少なくする効果はあるが、実際にそのような行為が行われないかどうかは、最終的には利用者の自覚に期待するしかない性質のものというべきである。そして、青年の家において、性的行為に及ぶ可能性をなくすために、特に利用者の自覚を促したり、監視をするなどの働きかけをしていることは本件全証拠によるもこれを認めるに足りない。また、青年の家における宿泊形態においては、そもそも性的行為に及ぶ可能性がそれほど高いとはいえないことは前記説示のとおりである。このように、この原則がその防止を狙いとする性的行為に及ぶ可能性自体が高いものではなく、右原則を適用してみてもその効果は疑問であり、効果を挙げようとする試みもされていない。男女別室宿泊の原則といってもその必要性と効果はこの程度のものである。現実には生ずる可能性が極めて僅かな弊害を防止するために、この程度の必要性と効果を有するに過ぎず、また元来は異性愛者を前提とした右原則を、同性愛者にも機械的に適用し、結果的にその宿泊利用を一切拒否する事態を招来することは、右原則が身体障害者の利用などの際、やむを得ない場合にはその例外を認めていることと比較しても、著しく不合理であって、同性愛者の利用権を不当に制限するものといわざるを得ない。
なお、当該利用者が、具体的に性的行為に及ぶ可能性があると認められる場合には(このような可能性の有無を調査することは困難であり、調査すべきものでもない。しかし、例外的にこのような可能性があると認められる場合も全くないとはいえないと考えられる。)、教育施設としての青年の家の設立趣旨に反するといえるから、宿泊利用を拒否できると考えられるが(本件において被控訴人のメンバーについてこのような可能性があったことを認めるに足りる証拠はない。)、これは、同性愛者に限られるものではないので、以下においては、そのような具体的な可能性があるとは認められない場合を前提に検討する。
Ⅳ ところで、控訴人は、何が青少年の健全な育成にそうものであるかは、教育的配慮に基づく高度の専門的・技術的判断に服するものであるから、都教育委員会には広範な裁量権が認められるべきであり、この限界を超えない限り、違法とはいえないと主張するが、教育施設であるからといって、直ちに他の公共的施設の利用に比べて施設管理者に大幅な裁量権が与えられるとは直ちにいえないのであって、各公共的施設の設立趣旨、目的、運用の実情等を勘案して具体的に地方自治法二四四条二項に定める「正当な理由」があるかどうか判断すべきものである。そして、前記認定事実によれば、青年の家は、宿泊機能と活動機能が一体となった施設であり、青年たちが共同宿泊活動を通して成長する場として設置されたものであるが、その使用方法は、青年の家が予め決めている標準生活時程に合わせて利用者が自主的に決めることになっており、その生活も各グループの自主的な運営に任され、青年の家職員の指導・助言も現在は利用団体の主体性に任せた上での間接的な指導・助言となっている。このように青年の家の教育施設としての特色といっても、現在は、職員が青年の健全育成のため利用者に積極的に働きかけるというよりも、青少年の共同宿泊活動を通した自主的活動に適した施設を提供するという面が強いのであり、通常の公共的施設とは、利用者の対象が青少年であるという点が異なるとはいえ、できる限り広範にその利用を許すべきであるという点において、共通しているというべきであって、その利用において、一部の利用者の利用権が著しく制限されてもやむを得ないということはいえないと解するのが相当である。
Ⅴ また、控訴人は、青年の家の利用者は青少年であり、特に、小学生も利用しているところ、最も性的成熟度が未発達で、学習に対するレディネス(準備能力)が備わっていない小学生たちが同性愛者の同室宿泊を知れば、男女の同室宿泊以上に強い衝撃を受け、誤解あるいは理解不能な対象に対する過剰反応を起こす可能性は否定できず、有害であり、それば、青年の家の設立趣旨に反し、ひいては青年の家の秩序を乱すおそれがあり、管理上も支障があると主張する。
証拠(甲二六三、二八一、三一六、乙二二、三二ないし三四、当審証人山本直英)によれば、性教育を実施するについては、特に、児童・生徒の学習に対するレディネス(準備能力)―一般に学習に必要な身体的・精神的諸機能や諸能力、学習を進める上での基礎的な知識や技能の保持、学習態度の確立など―を重視する必要があるとされていること、中・高校生の性教育に関する副読本においては、同性愛についても理解できるとの判断のもとに、これに関しても具体的に記述されていること、高校生の副読本においては、平成二年当時、同性愛が差別の対象とされてはならないことも記載されていること、小学生に対しても、同性愛について説明し理解させることは可能であるが、それについては小学生の理解を前提とした特段の工夫が必要であること、小学生の性教育の副読本においては、大多数の人間が異性愛者であることから、基本的な性愛の説明として、異性愛者のそれを中心に説明し、同性愛者の説明は具体的にはされていないことが認められる。右事実によれば、青少年に対しても、ある程度の説明をすれば、同性愛について理解することが困難であるとはいえないのであり、青年の家においても、リーダー会を実施するかどうか、実施する場合にはどのように運営するかについて、青年の家職員が相応の注意を払えば、同性愛者の宿泊についても、管理上の支障を生じることなく十分対応できるものと考えられる。また、異性愛者を前提に社会の仕組みを理解しようとしている小学生等に対し、青年の家職員らが、同性愛について適切に説明指導することは困難であると考えられないでもないが、同性愛者と同宿させることにより、青少年、特に小学生等に、有害な影響を与えると都教育委員会が相応の根拠をもって判断する場合には、いずれかの団体のうち、後に使用申込をした団体の申込を都青年の家条例八条に基づき拒否することも場合によっては可能と考えられるから、右のような事態が生じる可能性があるからといって、当然に同性愛者の宿泊利用を全て拒否できるということはできない。
そして、平成二年二月一一日から一二日にかけて生じた小学生による本件言動が、同性愛者に対する好奇心や蔑視から生じたものと考えられることは前記説示のとおりであり、このようなことが生じたことが本件不承認処分を正当化するものではないことも前記説示のとおりである。
したがって、控訴人の前記主張は採用できない。
Ⅵ 以上のとおり、都教育委員会が、青年の家利用の承認不承認にあたって男女別室宿泊の原則を考慮することは相当であるとしても、右は、異性愛者を前提とする社会的慣習であり、同性愛者の使用申込に対しては、同性愛者の特殊性、すなわち右原則をそのまま適用した場合の重大な不利益に十分配慮すべきであるのに、一般的に性的行為に及ぶ可能性があることのみを重視して、同性愛者の宿泊利用を一切拒否したものであって、その際には、一定の条件を付するなどして、より制限的でない方法により、同性愛者の利用権との調整を図ろうと検討した形跡も窺えないのである。したがって、都教育委員会の本件不承認処分は、青年の家が青少年の教育施設であることを考慮しても、同性愛者の利用権を不当に制限し、結果的、実質的に不当な差別的取扱いをしたものであり、施設利用の承認不承認を判断する際に、その裁量権の範囲を逸脱したものであって、地方自治法二四四条二項、都青年の家条例八条の解釈適用を誤った違法なものというべきである。」
10 同一〇四頁一〇行目の「原告」から同一〇五頁四行目までを「同性愛者が青年の家を宿泊利用する場合の支障等について、更に調査検討し、またその際宿泊を拒否する以外にどのような対応が可能かについてより綿密に検討すべきであるのに、これらについて十分な調査検討をすることなく(前記認定事実によれば、瀬川所長が、「ハイト・レポート」、「イミダス」、文部省の発行した「生徒の問題行動に関する基礎資料」等の文献から直ちに同性愛が健全な社会道徳に反し、現代社会にあっても到底是認されるものではないとの結論に達したことは認められるが、都教育委員会がいかなる文献、専門家の意見を聞いて、本件不承認処分を行うに至ったかについては、本件全証拠によるもこれをつまびらかにすることはできない。)、男女別室宿泊の原則を、性的行為を行う可能性にのみ着目して、この観点から同性愛者にそのまま適用し、直ちに、本件使用申込を不承認としたものであって、都教育委員会にも、その職務を行うにつき過失があったというべきである。平成二年当時は、一般国民も行政当局も、同性愛ないし同性愛者については無関心であって、正確な知識もなかったものと考えられる。しかし、一般国民はともかくとして、都教育委員会を含む行政当局としては、その職務を行うについて、少数者である同性愛者をも視野に入れた、肌理の細かな配慮が必要であり、同性愛者の権利、利益を十分に擁護することが要請されているものというべきであって、無関心であったり知識がないということは公権力の行使に当たる者として許されないことである。このことは、現在ではもちろん、平成二年当時においても同様である。」と改める。
11 同一〇五頁九行目を「(一) 被控訴人の弁護士費用以外の損害 三万七二〇〇円」と改め、同一〇六頁八行目の「一〇万円」を削除し、同一〇七頁一行目から二行目にかけての「余儀なくされた」から同三行目末尾までを「余儀なくされたと主張する。しかし、そのために交通費の支出、担当者の収入減に対する補填等の財産的損害が生じたのであれば、これを請求すべきであるし、それ以外の、余分の労力を余儀なくされたことによる労苦、迷惑といった非財産的損害(無形の損害)は、社会観念上金銭をもって賠償させることが必要な程のものとは認められない。したがって、このような損害賠償請求は認めることができない。」と改める。
12 同一〇九頁九行目の「二六万七二〇〇円」を「一六万七二〇〇円」と改める。
二 よって、原判決を右の趣旨に従って変更することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法九六条、八九条、九二条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官矢崎秀一 裁判官山﨑健二は転補につき、同彦坂孝孔は差支えにつき、いずれも署名捺印することができない。裁判長裁判官矢崎秀一)